正義に溺れてしまった中毒状態を「正義中毒」と呼んでいます。
他人の過ちを糾弾し、ひとときの快楽を得られたとしても、
日々誰かの言動にイライラし、
必要以上の怒りや憎しみを感じながら生きるのは苦しいことです。
「なぜ私は、私の脳は、許せないと思ってしまうのか」
を知ることにより、
自分や自分と異なる他者を理解し、
心穏やかに生きるヒントを探っていきます。
続きは、・・・
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自分自身に100円貯金するつもりでアウトプットしていま~す
◆人の脳は、・・・
裏切者や社会のルールから外れた人といった、
分かりやすい攻撃対象を見つけ罰することに
快感を覚えるように出来ている
◆他人に「正義の制裁」を加えると
脳の快楽中枢が刺激されドーパミンが放出される
◆人間は大脳新皮質があるばかりに
生きている意味を考えなければならない宿命を背負った
◆愚かさの基準は国によって異なる、例えば、・・・
日本では「みんなに合わせられないこと」は愚かと考えられるが、
フランスでは「みんなと同じこと」が愚かと考えられる
◆フランスでは議論はコミュニケーションの基盤
例えば、・・・・
一方が「Aについて話をしたい。私はXだと考える。理由は○○だが、あなたはどうか?」
と語りはじめたら
もう一方は「あなたと考え方が違う。私はYと考える。理由は××で、・・・」
と応じます。
そこからお互いが、より議論を掘り下げていき、
「この部分はどう考えるか?」とか「この部分は賛成だが、この部分は理由になっていないのでは?」
などといった具合に議論を発展させていく
人と人が会うたびに、とても楽しそうに意見を交わしている
◆日本での議論とは?・・・
「Aについて、あなたはYと主張しているが、その考えはいかがなものか?」
「いやいや、Xなどと言い張っているあなたこそ失礼千万だ!」
「なんだ、その態度は!生意気な。人の顔を潰すつもりか!」
日本の議論は深堀せずに意見を争わせ
本質の研究ではなく、喧嘩コントのような争いになってしまう
◆なぜ「議論」の定義が異なるのか?
様々な人種と文明の交差点として、多様性と議論が当たり前だった大陸と
海に閉ざされていて自然環境が厳しかった島国
との違いかもしれない
◆一つには、地政学的な面での影響が大きい
違っていることは当然で、違いがどうあれ、その理由や背景を議論しながら理解を深めていく社会と
同質なのが当たり前で、違っているものがあれば排除しようとする力の働く社会
◆日本では、違っているものを排除使用とする理由
災害が多い日本では、・・・・
集団で効率よく助け合って行くことが
その環境で生き抜くために最も重要だったから
そんな状況にもかかわらず集団に迷惑をかけたり
ルールに背く人間が現われたら、
その人を集団に置いておくことは集団の人々の不利益に直結したから
◆人格攻撃と議論の決定的な違いが、正義中毒の原因
→正義が一つしかないという前提があるために議論に昇華する余地を持たない
日本人が議論だと思ってしていることは、
対立する二つの意見を吟味・検討してより良い結論を導くというものではなく
たいがい人格攻撃、けなし合いとなっている
けなし合いと議論は全く違うものなのですが、
正義中毒人々は、相手の主張の良いところを取り入れることが出来ません
◆加齢が脳を保守化させる(キレる老人の典型的なパターン?)
老人が相手に有無を言わせず自分の論理だけを信じて
直情径行的に行動してしまうのは
前頭葉の背外側前頭前野が衰えているから
◆「昔は良かった」は、脳の衰えのサイン
昔を懐かしむ行為は脳の前頭前野が老化しているサイン
正義中毒と根が同じかもしれない
また、「相手を許す」ための大きな足がかりである前頭前野は
加齢によって萎縮してしまう
◆老けない脳を作るトレーニング
前頭前野が衰えていない人は、
固定化された通念や常識・偏見を鵜呑みにせず、
常に事実やデータを基に合理的思考や客観的思考を巡らせている
というこは、日常的に合理的思考、客観的思考ができるようなクセをつけておく
あるいはそうせざるを得ない状況に身を置いておくと前頭前野は鍛えられるのでは
①慣れていることをやめて新しい体験をする
いつもと違う道順であるくとか・・・
「いつものメニュー」や「いつもの店」を変えてみるとか・・・
②不安定・過酷な環境に身を置く
「絶対に読まない本」「関心のない本」を手に取るとか・・・
ネットで、あえて興味も関心もないキーワードを検索するとか・・・
③安直なカテゴライズ、レッテル貼りに逃げない
単純なレッテル貼りを気持ちよく感じてしまう裏側には脳の弱さがあるという背景をよく知っておくこと
④余裕を大切にする
通勤時間を短くしてみるとか・・・・